ハチ公に学ぶ、輝かしい人生


華やかな人生。輝く人生。

多くの人々は皆、それらをざっくりしたイメージで追い始めます。

やがてそれらが理想や夢となり、はたまた目標にまで昇華し、理想的な人生の意味を築き上げます。

 

誰もが輝かない、華やかじゃない人生など求めないし、求める理由も有りません。

しかし輝く、華やかなとは一体どんなものなのでしょうか。

 

複雑な社会構図や、時代的背景や概念が重なりあって、

それらには様々な価値観や概念があるかと思います。

 

人生で大切な事。真意。本当に必要な事。

 

輝く華やかな人生とは一体何なのでしょうか?

 

そこで、こちらの写真をご覧頂きたいと思います。

 

 

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この写真を見て、一体何を感じたでしょうか?

 

・愛されて飼われていた犬が家族に看取られた姿

・事故や事件に巻き込まれて命を落としてしまった野犬

 

色々とイメージできるかと思います。

 

 

こちらの写真は、忠犬ハチ公が死去した際のものです。

周りで手を合わせている人々は、ハチ公を日々見守っていた人々です。

 

 

忠犬ハチ公と言えば、

 

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そう。渋谷ハチ公前という有名な場所があります。

都内に住んでいるヒトならば、多くのヒトが待ち合わせ場所として活用している事でしょう。

 

 

結論に入る前に、改めてハチ公の物語についてご紹介してみたいと思います。

 


 

忠犬ハチ公の一生

 

大正12(1923)年

秋田県大館市の斉藤義一さん宅で誕生

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秋田市から奥羽本線で北へ向かうと、ハチ公ゆかりの秋田県大館市。青森県に近い県北部に位置した盆地の中にひろがっています。
ここから1匹のオスの子犬がはるか東京へ旅立つことになりました。

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斉藤家の現在の地番は大館市大子内三ッ梨61。

どっしりとした構えの建物で、市道に面した玄関の前に「ハチ公生誕の地」と書かれた標柱と、子犬のハチ公像が立っています(写真左側)。

 

幸せいっぱいの上野宅での日々

 

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ハチ公の初代の飼い主、上野英三郎博士は、駒場にある帝国大学(今の東京大学)農学部の先生でした。

ハチ公が着いたとき、上野博士は53歳、八重夫人は39歳でした。

上野宅には他に養女つる子さん夫妻、書生の尾関才助さん、女中のおとよさん、おせいさん、おとしさんという構成。

翌月にはつる子さん夫妻の長女久子さんが誕生しました。

上野博士はハチ公を含め5匹の秋田犬を飼いましたが、4匹はみんな1歳か2歳で死に、博士を悲しませました。

幾晩も寝ずに吸入をかけたり、氷枕や氷嚢をかえたりしての看病の後でした。

秋田犬に恵まれなかった博士がハチ公を得て可愛がったのもつかの間、今度は自身が1年半で他界することになってしまいます。

現在はハチ公と共に青山墓地で眠っています。

 

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京してきた頃、環境の変化のせいか体の弱かったハチも、梅雨があがると、健康を取り戻し、博士のお見送りが始まりました。ジョンとSも一緒です。

送り迎えするのは2ヶ所で、駒場の東京大学農学部校門がそのひとつ。もうひとつが渋谷駅です。

渋谷駅はハチ公口と、その前にあった市電の終点とがあり、週数回の西ヶ原農事試験場に出向くときは山の手線を、農商務省に出かけるときは市電を使っていました。

ハチばかりでなくジョンもSも、朝見送った場所に夕方迎えに行く異なる3ヶ所をよく覚えていました。

 

来ない博士をじっと待つハチ公

 

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博士の他界後も、ハチ公は博士を迎えに来る日も来る日も駅へと迎えにいきました。

 

宿無しのハチを有名にした斉藤弘吉さん

 

 

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本犬保存会を組織している斉藤さんは、ハチが農学部まで上野博士を迎えに来ているのを時々みかけて大変立派ないい秋田犬だと思い、覚えていました。のちに渋谷で再会したときのハチは、野犬捕獲人につかまったり、小荷物室に入ったため駅員にひっぱたかれたり、顔に墨くろぐろといたずらされたり、夜の露店の親父にお客の邪魔と追われたり、あわれでした。

 

斉藤さんは、なんとかハチの悲しい事情を人々に知らせて、もっといたわって貰いたいと考え、

朝日新聞に寄稿したところその記事が大きく取り扱われました。

 

記者が片耳の垂れたハチを見て雑種と報道したので、幾度もこれを訂正させたのがまたいっそう宣伝効果を上げ、

そして駅員や売店の人まで急に可愛がるようになりました。

 

この頃からハチに公の字をつけて呼ばれるようになり、またいつの間にか忠犬と冠されるようになってしまいました。

 

安藤照さんの名作ハチ公像

 

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昭和8(1933)年頃、斉藤さんとかねて親しい彫塑家の安藤照さんは、ハチ公の話を聞いていたく感動し、ぜひハチ公像を作りたいといい、モデルを頼みたいと言いました。安藤さんのアトリエは代々木初台で当時の飼い主であった小林さんの家と近かったので、小林さんが毎日ハチを連れて通いました。

 

ハチ公生前に出来上がった銅像

 

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ハチの人気は一層高まり、駅の近所にはハチ公せんべい、ハチ公チョコレートを売り出す店が出るかと思うと、秋田県の大館ではハチ公こそ自分の家で産まれたのだという親元争いまで始まるようになりました。

中でも一番始末の悪かったのは、上野家からハチに関したいっさいを依託されたと自称する老人が現れ、美術院同人の大内青圃氏にハチ公の木像を作ってもらって駅の改札口に飾る、その資金を集めるためと称して木版画の絵はがきを作り、吉川駅長に署名させて売り出し始めました。

収拾のつかなくなった木像騒ぎに彫塑家の安藤照さんは困って、何とか早く自分の銅像を、というわけで生前に銅像ができあがったわけです。

 

 

さよならハチ公

 

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ここで最初の写真へと戻ります。

 

昭和10(1935)年3月8日午前6時過ぎ、ハチはその一生を終えました。享年13歳でした。

ハチ公は、普段行かなかった駅の反対側、それも駅から離れた稲荷橋付近、滝沢酒店北側路地入り口でひっそりと死んでいたそうです。

ハチ公は死ぬ前に、懐かしい思い出のある町の人たちに、いちいちお別れの挨拶をすませて旅立ちました。

原因はフィラリア病がハチの心臓まで侵したせいです。

 

人と花輪で埋め尽くされた告別式

 

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生前一番親友の多かった渋谷駅へ運ばれると、上野未亡人や二代目飼い主の小林さん夫婦、そのほか町内の人々が押し寄せて、喪章をかけてやるやら、毛並みを撫でつけてやるやら、末期の水を口に塗るやら、チョコレートを供えるやら――
そのうち近所の妙祐寺からお坊さんが来てお経を上げる頃には、生前知己の仲だった少年少女たちがいろんな花を持ってきて、ハチ公は花輪に埋もれてしまいました。

 


 

 

華やかな人生へと昇華した一生

 

忠犬ハチ公の一生は、まさに波乱万丈そのものでした。

これだけ多くのヒトのココロを動かしたのは、ハチ公がそれを目的としているわけではなく、あくまで博士への愛情を何よりも純粋に体現していた事にあるのだと思います。

 

輝く人生。華やかな人生。

それらは果たして目的なのでしょうか?

 

それらはあくまで抽象的な結果論であるような気がしてなりません。

 

想い続ける事。

気持ちに純粋に向き合い、正直で素直である事の大切さ。

それらを改めて教えてくれている気がします。

 

この社会には様々な概念や価値観が存在していますが、大切な事は時代を超えても何一つ変わっていないのかもしれません。

 

どれだけ辛い道のりでも、悲しい出来事があっても、

思い続け、行動し続け、自分に素直・正直であり続ける事が、最も華やかで輝かしい人生であり、結果幸せな人生への近道なのかもしれません。

 

 

大人になるにつれ、金銭的価値や体裁など、避けて通れない事情が人生にはありますが、

一度立ち止まって、「自分にとって最も大切で愛でるべきものとは何か?」を考えてみれば、また少し違った人生の価値観が芽生えるかもしれませんね。

 

 

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今も渋谷駅前の喧噪な場所で、多くのヒトの出会いや交流を見守り続けている忠犬ハチ公像。

 

 

銅像もそうですが、ジュエリー(宝石)等は、もともとヒトの想いを表現する最上級のツールでした。

今も様々な形で様々なヒトの想いを秘めながら贈られたり、身につけられたりしています。

 

そしてそんな想いの詰まった商品は、後世へとひきつがれていきます。

モノより思い出とはよく言いますが、「モノにも思い出。」と敢えて言わせて頂きましょう。

 

 

華やかな人生や輝かしい人生とは?

一生を終えても何かに影響し続ける、純粋な想いの事なのかもしれません。